PODから考える出版の未来
- kotoumishirabe

- 2021年9月11日
- 読了時間: 10分
更新日:2024年1月26日
PODとは、プリントオンデマンドとも呼び、従来のように何百部、何千部からしか受注できないオフセットによる印刷製本とは異なり、小口の注文にも(一冊でも)応じてくれるので、とても便利な面があります。このしくみは本を買う消費者にとってだけでなく、本を売る側にとっても、受注生産なので沢山の在庫を抱えてしまうリスクがありません。また作家や著者にとっても、赤字が出ないように一定数の実売部数の目標値をクリアしなくてはならない出版社の編集サイドからの要望に応えて書きたいことが書けなくなる心配をせずに済みます。これは書き手の意欲につながります。書き手の創造性がのびやかに発揮された読み物からは、それだけ生き生きとしたエネルギーが放たれますから、読み手にとっても必ず好い結果をもたらすはずです。
そんなわけで、これからの出版形態としても将来性があるのではないかと見ることができます。
問題は、この出版形態がいまだ世の中に浸透していないことです。人々の集合意識を支える考え方には往々にして固定観念や先入観といわれる性質があります。ある時代に常識であったことでも、やがて誤った常識と見なされる時が来ます。そうして価値観が転倒し、それまでは正しいと思われていた常識がひっくり返るには、どうしても時間が必要です。
ところで、PODには大別して二つの役割ないし使命があるといわれています。
第一に、本屋さんの店頭に並んだり、メディアに掲載された広告をとおして知られたりする以前の段階で手に取って読むことを可能にする点です。
書店流通が必須でないからこそ、既成の販路に乗せなくてもよいオリジナル本。というと、魅力的に聞こえませんか。
あるいは、逆に大々的に宣伝され書店に出回り、話題になっている本でないなら、買わないという人もあるかもしれません。なぜなら、多くの人々に読まれている本には、それだけ信用価値があり、そうでない本には保証がない思うからです。
でも、よくよく考えてみると、世の中の多くの人が興味を持ったり、専門家や権威筋が評価しているからといって、果たして今の自分にとって必要な本かどうかとなると、それはわかりません。「今の私にいちばん必要な本はどれか」という問いかけをしてみて、しっくりとくる答えが返ってくるとすれば、それは自分の内側からやってくるはずです。外側で起きていることは一つの参考にはなっても、最終的な判断基準とするには不十分でしょう。
考えてみれば、当たり前のことです。けれども、こんな当たり前のことが、少し前までの旧時代ないし旧世界においては、当たり前になっていなかった。とすれば、どうしてでしょうか。先ほども触れたように世の中に知れ渡っているものほど、信用がある。メジャーなものほど、ハズレのリスクが少ない。確たる根拠はないまでもなんとなくそんな気がして、行動に反映されてきた。ひょっとしたら、これは社会で大多数の人々の暗黙の了解があるというだけで、盲信ないし妄信にすぎないのかもしれません。
そうすると、ここで疑問が生まれます。では、いったいどうして自分でもはっきりと意識し、考え抜いたのでもないことを習慣的な消費行動にしているのだろうか、と。このミッシングリンクのように動機と行動のあいだに横たわるブラックボックスの謎を解くには、企業活動の本質を理解するのが早道です。
つまり企業は社員を利潤を追求し、金利を払いつづけるために成長しつづけなくてはなりません。そして社員の月々の給料を滞りなく支払わなくてはなりません。だから、大量生産をし、出来たものはなるべく余らないように売り切らなくてはならなくなるけれど、一方で相手にするのは、あくまでも一人一人の人間です。つまり買ってくれるのは、それぞれ個我をもち、思考も感情もあって、機械のようには動きを予想できない存在なのです。そこで購買欲求をそそる必要が出てきます。刺激をあたえることで、行動を誘導するわけです。その刺激→行動が、パターン化してくるには、消費者の心理をつかむ必要があり、これが完成してくると広告宣伝の効果が現れてきて売り上げが急伸してくることになります。
しかし、食品や医薬品やサプリメントで成功した宣伝戦略が、そのまま書籍で成功するとはかぎりません。かつては本が売れた時代もありました。今は日本に出版社が3,300社(初出4,000を訂正済。20年ほど昔は事実それくらいは存在しました)もありながら、大手出版社といわれる会社はごく少数で、年々歳々活字離れが進行しているとすれば、もはや企業に都合がよいようには、消費者の心理は反応してはくれないということでしょう。
取次会社をとおし、書店流通を前提とした従来の商業出版のスタイルであれば、本が売れなかった時のことをまず考え、赤字を出さないような本作りを優先しなくてはいけません。まず老舗の看板を守っているところ、たとえば古文書の復刻本であるとか、一冊十万円以上もする歴史の資料であるとか、大学生が講義を受講するのにテキストとして揃えなくてはいけない専門書であるとかを出している版元を見たら、手堅い売り方をしているな、と普通は思います。もちろん、そういう出版社が安泰かというと話は別ですが、どこも読者獲得に努めようとするなら、一般書でも得意ジャンルにしぼって本を売るのが定石というものでしょう。
ただそうなると、小説とか読み物と聞いただけで、うちはかつてはやっていたが、売れ行きが悪くなり、ラインナップから外されて今は取り扱いがない。編集会議にかけてもどうせ没になるから、小説の持ち込み原稿は門前払いとなるのは当然です。しかし、そうやってカッキリ、カッキリとカテゴライズしてやったとしても、果たして昔のように安定した状態が期待できるのか、というところが問題です。
読者の心はいまや予測もできないほど流動的です。映像や音楽、YouTubeはじめとする動画、SNSと、あまりにも多様な情報空間から刺激を受け取っていて、ちょっとしたことがきっかけで、まるで別人のように趣向が変わってしまう可能性をはらみ、変動につぐ変動であてどもない茫漠とした次元を彷徨っているかもしれないのですから。
ところが、出版社が本の企画を立てる場合、今まではどうやってきたか。発行部数と実売部数の差がなるべく小さくなるように、赤字を出さないように、つねに本の生産流通にかかるコスト計算をし、損益分岐点を意識して売ることを至上課題というより、社命のように考える営業の人間と、クリエイターの魂をもつことを自負する編集の人間とが相容れないのは当たり前でした。
会社の経営が順調に行かないと困るのは、営業の人間も編集の人間も社員であり、生活がかかっている以上、同じというところで、折り合いがついていたと思います。
この構造のゆえに、すでに本が読者の心から離れてゆき、読者の潜在的なニーズをつかみにくくなる原因は胚胎していたといえます。
企画の段階から「のっぴきならない」事情というものが背景にあって、それが出来てくる本自体に反映されてしまう現実があります。そんな業界の生産構造や内部事情のことも知らない読者が、新刊の広告を目にして、キラキラしたキャッチコピーのイメージに、なんとなくそそられて買ってしまう。そして注文の翌日に宅配便で届いた本を手に取ってみてページを繰ると中身の薄さに物足りなさを覚え、あれ、まさかこんな買い物するとは、と催眠術から醒めたような気になるわけです。
これは何を意味しているでしょうか。つまり、会社が生き延びることが第一にならざるをえない時、こうした事態が必然的に起きてくるということです。もっとわかりやすい例でいえば、食品添加物の多い加工品や農薬を使用した農産物などをなにも考えずに買って食べつづけた結果、毒素が蓄積され病気になるというケースがあります。一見関係がなさそうでも、現在までの地球上における一般的な企業活動の目的と個人のしあわせ、もっというと究極の人生の意味であるところの霊的進化とがまったく相容れない点では同じです。
人間の知性と精神の最大の可能性を追求してやまないはずの出版文化が衰退に向かうということがどういうことであるのか。
江戸時代の黄表紙や洒落本、滑稽本など草双紙と呼ばれた大人の娯楽絵本の類いをはじめとする戯作を読む習慣が庶民や大衆層にまで浸透しはじめた頃はまだ人々は人生の疲れに慰撫を求めて無邪気に空想に耽り、風刺をこめた諧謔を弄する内容を見ては憂さ晴らしをする程度で、深刻な事態はさほど進行はしてはいなかったろうと想像されます。それがやがて近代になって印刷技術の発達で出版が盛んになるにつれ、《空前のベストセラー》といった概念が生まれると、他人の欲望や思考がいつのまにやら自分のそれになってきます。また、流行に乗った後追い企画が盛んになる現象も生まれてきます。
そのへんから、今の自分にいちばん必要な精神の糧がなんであるかを問い、自分の内側深くをのぞき、その答えを見つける前に流行に流されるということも起きてきたのではないかという気が自分の経験を振り返ってみてもします。もちろん、流行と求めるものとが、たまさか一致する場合はあるにせよ、みずからの魂から遠ざける力に負けて、みずからの魂と対話し、考えることをしなくなってゆく。すでに江戸期には現れていた娯楽絵本とはまた別の意味で、エンターテイメント小説が広い読者層を獲得してゆくことになります。
戦後になって週刊誌をはじめとする雑誌が爆発的な売れ行きを見せる頃から、精神文化と出版文化の蜜月時代が終焉を迎えて、商業主義がしだいに出版を蝕み、やがて人間精神を蚕食する運命をたどります。いずれも予想できたことであり、すべてが必然だと思います。
最初から損益分岐点を設け採算の取れる売り方、作り方を考えてないといけないのと異なり、少部数でも刷って製本できる。一冊でもかまわない。確実に買ってくれるとわかっていて作るから、リスクがない。まだラットレースに出場してない分、無垢材のような生原稿が純粋性を保ちつつ紙の上に印刷され、製本される。こういう貴重な本にたいし、お金さえ払えば手に取って好きな時にページを繰ることができる。夢のようなことが実現可能になったのです。
類稀なる輝きを放つ原石でも、すぐに加工され研磨をかけられて宝石店の陳列ケースに並ぶ売り物となるか、それともじっくりと時間をかけ、祈りをこめ、芸術作品のように意匠を巡らせ趣向を凝らして、たった一つしかないオリジナルのプレシャス・ストーン(貴石)として、縁のある人々にだけ披露されるか。この違いが、大量生産とオンデマンドの本質的な違いでもあります。
市場価格のつけられない、希少価値を誇る逸品としての価値というのがあります。その意味で本当にこの石の値打ちがわかる人だけが選ばれる。むしろ石のほうが見つけてくれるといったらよいでしょうか。質の高さだけを求めている読者。少々値段が高くても、高いと思わない。そういう読者。宇宙タイミングにて人間と石の双方が引き寄せられ、出会わせられる。そして口コミやネットをつうじて伝わってゆく。
ここに、たんなる欲望エレメンタルの衝動に駆られ、物が売り買いされるのではない幸福な地平が開かれてきます。
今回は、久しぶりの記事になりました。前回までは一つのテーマだけにしぼって、連載してゆく方針で行くつもりでした。しかし、それでは無理があり、続かなくなるとわかり、今度は実作者としての《舞台裏》だけでなく、言海書店店主として、本を愛し、出版の未来を考える人間としても、幅広いテーマで書いてゆくことにしました。その名も『店主の随想録』と題して、ぼちぼち書いてまいりますので、気長におつきあいくださいませ。
2021年9月11日




コメント