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天体音楽と作中人物の宇宙的使命

更新日:2024年3月25日



 

 『しじまの彼方から』を書こうとしてまず最初に思い浮かんだ人物が、主人公の大狼白樹であると同時に大狼澪だった。一蓮托生ともいうべき非常に密接な関係にある二人の男女という舞台設定が、小説全体にとって必要欠くべからざることを、この時すでにわかっていた気がする。言い換えるなら、この二人の男女の結びつき、すなわち絆の深さそのものが、この小説の前提であり、テーマにもつながっているといえる。


 

 作中人物に輝きと深みをあたえるものにも述べたとおり、指南書は苦手という性質上、登場人物の設定にあたって、こうあらねばならないというのはいっさいない。

 その代わりといってはなんだが、知らぬ間にというかおそらく経験的に身についてしまった信念いや勘のようなものがある。

 人物像より先に大きな出来事が浮かべば、その中で逆に人物像が決まってゆく。 

 けっして先に性格上の特徴とか、癖とか、外貌といったものが描かれ、人物像が決定して、それから後にその人間の考えや願望にしたがい行動がなされ、現実の壁にぶつかって……という具合に展開してゆくのではない。

 これをある観点から反近代と見る向きもあるかもしれない。エジプトのピラミッドのような作者のいない、あるいは作者不詳の建造物を藝術と見なすなら、これを客観藝術だと言ったインドの覚者すなわち悟ったマスターがいた。自然の音に近い音楽に理想的なものをもとめるシュタイナーの音楽観にも似たものがあるのではないか。

それについては、ミュンヘン在住の音楽家吉田和彦氏(著名な音楽評論家吉田秀和氏の御子息)の書かれた文章が参考になる。


    以下、Shikoku Anthroposophie-Kreis のWEBサイトより


 一般的に先進諸国の人間が音楽について語るとき、彼らが知る音楽というのはせいぜい過去300年から400年の間にヨーロッパを土壌として発展してきた音楽を指すので、人類全体の歴史やこれからの未来のことを考えると、ごく限られた範囲内での音楽でしかない…と言わざるを得ない。だが2000年前にも音楽は存在していた筈だし、2000年後にも音楽は存在する筈である。そうした目も眩むばかりの大きな背景の中で音楽を理解しようと努力した時、アントロポゾフィーは大きな助けとなり、それを通して始めて人は音楽の本質について少しずつ触れてゆくことが可能となる。(中略)


 自我に拘束された音楽

「天体音楽というものは単なる空想の産物ではなく、実際に存在するものである」とルドルフ・シュタイナーは語っている。つまりこの世の空間は鳴り響いているのである。しかし現在に生きる人間はその天体音楽を聴き取るという、遠い昔には所有していた才能をとっくに失ってしまっている。ちょうど光が届かない深海に生きる魚に眼が必要ではなくなってしまったかのように、音楽を聴こうとしない人間の感覚器官は退化してしまったのだ。人の話に耳を傾けない強情張りや自分勝手な人が歳を取ると難聴になり易いのはこのことと関係があると言えるだろう。

 さて何故人は天体音楽を聴く感覚を失ってしまったのか? それは人が音楽を主体的な表現の為の道具として利用するようになったからである。


 例えば古代ギリシャに於いて、それまでは空間に存在するそのままの形で歌われたり演奏されていた音楽が、演劇の舞台等での情景や感情表現の為に利用されるようになっていった。この時から音楽は人間の個人的な自我の中に少しずつ引きずり込まれてきたのであり、その過程が進化すれば進化するほど、空間に在るままの形での音楽を認識する人間の才能に陰りが生じ、そして失われてしまったのである。無論これは音楽に限ったことではないが…。

  (抜粋ここまで)

コラム|アントロポゾフィー的視点から見た音楽の変遷とルドルフ・シュタイナーの音楽衝動|吉田和彦(音楽家・ミュンヘン在住)



 ゴッホあたりに近代絵画の嚆矢(こうし)を認め、近代的自我をそこに見出す場合、個我や個性が前面に押し出されてくる。良かれ悪しかれ必然的にさまざまな欲望想念の行き交いが作品に反映されてくることになるが、この部分をどう見るかは、もう好みの問題のように思われる。


 話を今回の小説『しじまの彼方から』の人物の描き方にもどすと、のっぴきならない運命、それが彼らがどんな人間であるのか、この見え方を決定づけてゆくのだった。

 そして、運命の向こうには天命がある。つまり、天命を果たすためのプログラムが運命となっているという寸法だ。


 登場人物の身長、体格、年齢、顔かたち、肌の色、声、しぐさの癖みたいな身体的な特徴にしても、今の職業や過去の職歴にしても、属性といえばいえるけれど、そんなものはどうでもよいと思えるほど、大いなるミッションの見え隠れする運命の潮流のなかでは、もはや色あせ後退して見えてくる。


 大狼白樹は澪と出会ったために、物質界を超えた超常現象に出くわす。そして、もともとあった探究心にしたがい、未知なるものに開き、自己認識を深めてゆくことに喜びを感じる。

 一方、澪は白樹の理解と働きのお蔭で精神病院行きにならずに済んことをつねに彼に感謝するようになってゆく。


 のっぴきならない状況に追いやられ、異常な事態と極限状況をおおっていたベールがしだいに剥がれて、隠れたものが出現するかのように、未知なる自己と遭遇してゆく。ここにチャレンジの困難さをともないながら、同時に自己探究を深めてゆく喜びというものが味わわれてゆく。


 こうなるともう性格の特徴というものは、いかほどの重みをもつのか、といった疑問も生まれてきて、個人の望みや達成されることを待ち望んできた欲望も無意味なものと感じられるようになってゆくかもしれない。いや、それはあくまでも読者にゆだねられるべきものだろう。

 ただ少なくとも作者の中では、登場人物の夢や欲望を果たしてゆくことを主軸にストーリーを展開してゆくつもりはなく、そのための下準備のようなちまちまとした人物造形への情熱みたいなことをやるつもりはなく、そこにエネルギーは注がれることはない。


 その代わりにそうした性格や欲望や意図したものをたぐり寄せる行動といったものを描くよりも、むしろ時代や世界やこの星全体で起きていること、もとめられていることへと貫通する意志が自然と呼び覚まされるような事件や出来事や運命が先にあり、それらに巻きこまれ、浸透されてゆくといった構図になっている。というと、あたかも運命の波にもてあそばれ翻弄されつづけるように聞こえるが、けっしてそうではない。


 生まれてくる前から、人は自分の歩みたい人生のシナリオとやり遂げようとする計画をたずさえてくるが、それも霊界ないし天界で、その人の一生の守護にあたる専属の天使とともにあらかじめ予習してくる。ということは、なにが本質的でなにがそうでないかを承知し、問題の対処法も心得ているはずなのであるが、誕生とともに肉体に入ると忘却してしまう。


 霊界のほうに設計図があり、ピュアな思考の原像があるのなら、潜在意識に沈みこんでしまったそれらと再びつながりなおせば、運命の犠牲者にならず、運命の主人になれる。


 物質界と肉体界の天井を突き破ってそっちの次元にまで突き抜ければ、いいのである。


 ここにおいて作中において理想主義を体現する人物が生まれる。理想主義と現実主義の区別は消える。読み手は物語世界のなかに高次の理想を現実として味わう。


 閉鎖系ではなく、開放系であり、同時に複雑系でもある作中人物。 

 もし、いきいきとした人物だけを登場させたいと思ったなら、この条件は必須だろう。


 もっと言えば、人はたいていそれぞれの〈想念王国〉の王であり、住人なのだが、それに気づき、そこにいつまでもいることのくだらなさに飽き飽きしたとき、ようやく高次の宇宙へと意識の周波数域をひろげることができる。


 書きたいと思う小説に出てくる人物は、わたしにとっては、まったく作り物ではない。


 むしろ、霊界にその創造の源泉を認め、そこから流れてくるいのちのもとをいただいて書くということが自然とおこなわれるようになってくることとどうも併行しているのではないかと思う。

 したがって、自分の創りだした人物(これも正体は思念のエレメンタルだが)は、あの世の世界でいきいきと活動していることになり、それだけにこの仕事に従事する者には、大変な責任がつきまとうという宿命の中にあるという気がしている。


 あたかも天体音楽の幽(かそ)けき自然音を聴く器官を深海魚の眼のごとく退化させずにいられるように、今も向こうの世界で活動する精妙な天使的存在を静かに凝視することのできる人々がいることをどこかで信じていればこそ書きつづけられるのだろう。

 

 小説家という全体と切り離された人間は空想上でしか存在せず、「小説書き」という働きの場だけが、宇宙の計画と全体性の中に組みこまれて存在していると、わたしが心得ている理由もそのへんにある。



  20th Apr, 2021  言海 調



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