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こと玉小説術 第五回 小説は陰陽両極の絶妙なバランスこそ大事-ユの言灵

更新日:2024年4月28日


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 ある日の午前中のこと、電話の呼び出し音がけたたましく鳴り響いた。二階に上がって電話を受けたのは澪だった。白樹の実家からだった。階下にもどってきた彼女の顔の表情から、あきらかに体調と気分の悪化がうかがえた。 「どうしたの? なにか不機嫌になっているんじゃないの?」この言い方がまずかった。 陥りがちなパターンだった。「ぼくにはそう見えるんだけど」と、一言つけ加えることができたら、よかった。 「そうじゃない」と言って、彼女が泣きだした。   嗚咽(おえつ)の声に、白樹は悲しみと怒りの入り混じった感情の波を感じ取った。周囲の空気に亀裂をいれる鋭い波動だった。   総身の皮膚を粟(あわ)立たせるほどの苛烈(かれつ)なエネルギーに思わずひるみそうになりながら、なんとか彼は精神の平衡(へいこう)を保とうとした。   そのときすでに澪は憔悴(しょうすい)し、暗く険(けわ)しい表情をしていた。 (まさか……。もう終ったものと信じていたのに!)恐ろしい予感が白樹を襲った。それはこれまで何度も味わってきてよく知っている感じであり、久しくなかったあの現象が起きる前触れだった。彼女はすでに自分のからだに入りかけている存在におびえている。こういうときの不快感と苦しみは本人にしかわからない。十分に学んできたからには、もうこのような体験は必要ないだろうと澪も白樹も思っていた。   とくに澪の場合、自己犠牲という形でのお役目を引き受けるのはもうお終いにすると決めた以上、はっきりとノーと言う必要があった。巫女(みこ)として神託を降ろしていた過去生のほか最近では人身御供(ひとみごくう)で身を捧げた記憶も浮上していた。そうした過去生にまつわるカルマを超えてゆくことも今後の重要な課題だった。   だが、そうした事情にはおかまいなしに、完全に終息したと思われていた現象の「再発」は、最初の兆(きざ)しから数秒後には開始されたのだった。   いきなり彼女が苦しそうな表情となり、「霊動している」と、白樹が気づいたときは遅かった。完全に乗っ取られた本人を目の前にして、全身に緊張と戦慄(せんりつ)が走るのをおぼえた。 (手強そうだ!)   突然の奇襲に害意を読み取ると、ほとんど反射的に力まかせの拍手(かしわで)をたたいていた。 「さあ、光に帰れ。闇はない! 光だけがある。闇の世界というのはない」   今までなら、祈り心で黙して拍手を打つところを、ムキになってそう告げていた。言いながら、彼は相手の威嚇(いかく)に負けまいと、拍手の音をますます大きくとどろかせた。手のひらが熱くなり、はれあがってゆくのが感じられた。すると、澪に入った存在がしゃべりだした。 「なにを言っているんだ。俺を呼んだのはお前だぞ! 闇はある。闇を否定すると、それはもっと強力になって、お前のところに何回でももどってくるだろう」   最初、白樹の耳には、その言葉は幽界(ゆうかい)の住人とおぼしきエンティティが悪態をついているとしか聞こえなかった。  威嚇し敵対してくるかに見える相手にたいし、反射的に恐れの感情が出るだけでなく、敵愾心(てきがいしん)を燃やしはじめていた。 一方、相手は人間心理を見透かすかのようにこう告げた。 「そして、これもおまえがつくりだしたものだということを覚えておけ。おまえのその憎しみと怒りの想いが俺たちを呼んだのだ、ということをな。馬鹿めがっ」と、愚弄(ぐろう)のことばを浴びせ、毒づいたかと思うと、その場を立ち去った。

 

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 一連の霊的現象がおさまると、力がぬけてヘナヘナとその場にへたりこんだ。

(やれやれ……このたびは数ある経験のなかでも兇悪な部類に属する相手だったな)そう思いながらも、しかし向こうが残していった捨てゼリフをいまひとたび思い返してみて、ようやくにして自分の放った想念と行為を客観的に振り返ることができた。 「覚えておけ」の一言とともに彼の心に印象づけられたのは、「闇を否定すれば、お前のところに何回も戻ってくるだろう」と言いおき、さらに「おまえの憎しみと怒りの想いが俺たちを呼んだのだ」と、起きたことの背景を解き明かしてみせるような言葉だった。 (ヤクザな霊だけれど、筋のとおったことを言っているのかもしれない……)   単なる捨てゼリフとも思えなかった。 「闇はない。光だけがある」と、言い放った瞬間、自分から先に挑戦的な態度を示したのは、明らかだった。   そのうちに、エンティティの表現媒体となった澪に意識がもどってきた。 「大丈夫、澪ちゃん?」 しばらくは、ぼんやりとしたまま話せないようだったが、なんとか会話ができるまでに回復したのを見はからって、白樹はたったいま自分の身に起きたことを彼女に語って聞かせた。 「なかなかの体験だった。これは鏡のトレーニングとも呼ぶべきものかも」 「カガミの……トレーニング?」彼女はまだ完全にもどってこれていないと見え、虚(うつ)ろな眼をして訊(たず)ねた。 「ああ、そうだよ」 「なんのための?」 「もちろん、ぼくの教育のためさ」 「教育……」腑に落ちない様子で彼女は言った。 「自分の心の動きがどんな現実をもたらすか。つまり自分の放つ想念や言葉に責任をもつ、ということかな。それを学習してもらう機会が提供されているとも考えられる。起きていることをそのまま学習材料と捉えよ、と。じつはガイドのスピリットが承知のうえで、悪鬼(あっき)の役割を演じる存在を遣(つか)わせたんじゃないかと、思ったんだけどね」   澪はまだ腑に落ちぬ様子である。だが、白樹にとってはさほど新しいことでもなければ、珍(めずら)しいことでもなかった。すべては自分自身が招き寄せている。そのことをもっと自覚する必要があるのかもしれなかった。自分が自分に気づけず、無意識となっている。いわば心の闇の部分だ。それを外側のスクリーンに投影した結果、悪鬼のような面妖(めんよう)な様相をとって現象化してくる。   自分が今外側に見ている世界は、心ひとつで如何(いか)ようにも変わる。  子どもの頃に読み聞かせをしてもらった童話が思い出されてきた。骨をくわえた犬が池面(いけも)に映った自分の姿を見て、自分が確保した大事な食べ物を奪われると錯覚して吠えた瞬間に口にくわえた骨を水面に落としてしまう、という話だったと記憶している。 「どんなときも平常心をもって毅然(きぜん)と対処することができればいいとは思うんだけどね。口で言うほど簡単じゃないよ。とくに今回はそうだったな。とても不動心なんかじゃいられなかったよなあ……」 「うん。わかるよ。ほんと、そうだよね」澪が同情してくれたのも聞こえないかのように、それきり彼は黙ってしばらく考えていた。  さっき拍手を夢中でたたいていたときの自分は、臆病な犬が敵と見なした相手に吠(ほ)えたてているのと変わらぬ態度だった。そう思うと恥ずかしかった。そんな彼の心の中を知ってか知らぬか、 「どんな感情が湧いてきたの?」と、澪が質問した。 「まず恐怖だな。それから怒りの想い」  そうなると同じ拍手を打つという行為でも浄めになるどころか、対抗心や闘争心を強めてしまう。それでは、相手と同じ幽界と変わらぬ周波数のレベルに堕ちることになって、あちら側の思う壺ということになってしまう。 「相手の攻撃力に負けないくらいのパワーをもって臨まなくてはいけない。でないと負けてしまう、という力みがあったと思うな」彼は冷静な口調で述べた。「そのときの自分の心にはね、相手を兇悪な悪霊や悪鬼の類と見なして撃退してやろうと思うだけじゃなく、もっと別のものがあったと思うんだ」 「別のもの?」澪がいつになく興味を示した。 「うん。腹立たしい感情というかね」  些細(ささい)な事柄でふたりが口論となる。さっそく霊がかかってきて彼女のからだが乗っ取られる。あちら側はその場の不調和な波動を共鳴磁場として利用することで、オーラフィールドの結界を破ってくる。あるいはアストラル体の振動させ、その振幅の大きさにより肉体と精妙な身体との間に生じるズレを利用して侵入してくる。もう何度となく、繰り返されている。ということは、そういう常套手段による乗っ取りのパターンが、彼らにはあることになる。 「腹立たしさの感情と言ったのはね、これはひょっとしたらぼくを懲(こ)らしめる目的でスピリット側が承知して招いた現象ではないのかと、疑ったところに起因する感情だよ」 「さっきも言っていたわね、そのことを」 「いや、こっちの邪推にすぎないならいいんだけど。ぼくみたいな、なかなかわかんない人間に喝(かつ)を入れる、ショック療法だね。苦い体験を味わわせて、自分の発したマイナスの想念やことばがどれだけ悪影響をもたらすかを思い知らせる。たとえその時に相手の状態が悪かろうと、それに引きずられ、影響されてしまう自分がある。負の連鎖反応を起こしてしまう。もっともっと波動に敏感になりなさい、と警告するため一芝居打つ。手のこんだ教育プログラムじゃないか。澪ちゃんの潜在意識はそれに参画することに同意しているんだよ、きっと。どう? うがちすぎだろうか?」 「あたしにはまーったく身に覚えがないんだけど。全部、白ちゃんの妄想じゃないの?」澪は目を丸くして、彼の投げかけを一蹴(いっしゅう)したものだ。 「そうかあ。でね、……」と、彼はすっかり話してしまわねば気がすまないといった勢いでしゃべりつづけた。 「それならそれでひるむことなく応戦してやる。不意討ちの攻撃にたいし、受けて立とうじゃないか、といった戦闘的な想いが出てくるわけさ。これはいけないことだね。愚かしいエゴだね」 「戦争の種だね」 「そのとおりさ」白樹は素直に認めた。 「対立と争いを招く想念がまだ内側にあるうちは、外からの刺戟(しげき)に反応してスイッチが入ってしまうわけだな。なにもなければ、すうっと流せるはずだもの」  過去生から持ち来たった憎しみや怒りや恐れや疑いの想念感情。自分への執着。自分が正しいと信じる何かを証明したい想い。説得しようと無我夢中にさせる衝動。人類共通ともいえる憎しみや怒りや恐れや疑いに向き合い、克服する課題はどこかでかならずクリアされないといけない。自分が脅かされたと感じるたび自衛の衝動を超えた敵対感情や報復衝動が噴出し、攻撃的となる。こうした知覚錯誤と自己保存の衝動が、外界から受け取る印象を歪(ゆが)め、色づけされた知覚により世界とのあいだに不幸な断層を生じさせてきたのだ。  たとえ白樹個人のことであったとしても、過去生から今生に持ちこんだ未浄化な想念を純化することで世界の戦争の火種となる想念感情の一部を消せたことになり、その分だけ人類の業の総量を減らせる。本気で白樹も澪もそう信じていた。その意味では、浄めの場として使われている澪もおなじはずだった。  この理解こそは、人の憎しみや分離対立の意識を好餌(こうじ)として、ルツィフェルとともに人類を意識進化の道から遠ざけ、彼らのやり方で支配しようと画策(かくさく)するアーリマンにとって、不都合きわまりないものであるはずだった。そこへまた澪をつうじてメッセージが降りた。 

 

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― 闇の世界のエンティティは、あなたが洞察したとおり、人々の想いのエネルギーが集まって形成されたものです。そこにエネルギーを供給しなければ、やがてはしぼんでしまいます。かといって実在していないわけではありません。それは厳然として生存し、働きつづけています。いつの日にか人間の心が浄化され、あらゆる想いが光に変わり、完全に心の闇がなくなる時が来るでしょう。しかしそれまでは、エンティティは存続し、邪な作用をするエレメンタルは活性化し働き続けます。彼らはそもそも生命の源になっている光を見失い、背を向けてしまっているため、光の無限の供給とつながっていません。彼らはヴァンパイアつまり吸血鬼になるしかありません。人が自分自身に自足していない場合はどうなるか。自足していないと言ったのは、自己の内に安らぎと平和を見出すことができなくなっているということですが、そこに欠乏感を埋める必要が生じてきます。そうすると、他の存在からエネルギーを吸い取るしかなくなります。 ですから、人がこういう状態にあるとき、この意味でおなじく命の源である光のエネルギーを他の存在である生命体から吸い取って生きながらえようと絶えずその対象を探してさまよっているエンティティと波長が合ってしまい、その結果、エンティティに使われることになります。相手からエネルギーを吸い取る方法がエネルギーコードを相手に差し込むことです。蚊が針を刺して血を吸うようなものです。

 エンティティと波長が合ってしまうと聞き、白樹はさっきの自分の心の状態に関して、もう一度、内省してみた。すると、最初に母親の節子との通話を終えて二階に上がってきた澪の顔を見て、体調と気分の悪化を読み取り、この変化はきっと節子のネガティブな波動の影響を受けてしまった結果であろうと判断して、たしか「不機嫌になっているんじゃないの?」と、相手に言ってしまったことに思い当った。そのときの自分の感情はどうだったろうか……?   白樹はそこで自分の心をよく見つめてみた。起きて欲しくないことが起きている。不都合な事態への嫌悪感や恐れの感情といったものが見えた。 「波長が合うというお話でしたけど、もし闇の世界の住人たちのカルマの波動と波長が合ってしまうとしたら、自分が出しているのは恐れの感情かなと思ったんですが」


          (『しじまの彼方から』上巻 第十九章「悪魔の手口」より)




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 悪魔とかサタンと呼ばれる存在がいるのかどうか?世の中の大半の人々がこの問題について真面目に考えているとは思えません。それはしかし経験がないのでしかたがないといえばしかたがないことです。「あいつは悪魔のような奴だ」、「こんなやり方は悪魔の所業」、「まさに悪魔的だ!」などのありがちな表現からして、悪魔の実在を認めていないのが明らかです。ではそもそもなぜ冒頭に書いたような質問を投げたのかといえば、「フィクション(虚構)であるはずの小説が悪魔を題材にした際の扱いって、どうなるんだろう」という問題にもつながってくるからなのです。


 つまりもし悪魔が単なる<空想の産物>にすぎないのだとしたら、これを取り扱う小説は[ファンタジー]のジャンルに属することになるでしょうし、反対に実在するとなれば、もっと<リアリティ>のある、実際に悪魔に悩まされている読者にとっての「救いの書」となる可能性が期待できることにもなると思うからです。


 ところで、シュタイナーという人は、「今日では唯物論的な考えをもつ人々の間だけでなく、サタンを軽んじることばかりが嘲笑的な口調で語られ、サタンの存在が否認されている」といった意味のことを指摘しています。1908年(ベルリンでの講演)の時点です。シュタイナーは、サタンを「暗黒の王」と名づけた人にたいし、「暗黒は光を否定したものにすぎない。光は現実的だが、暗黒は実際は存在しない」と考えた人々がいたと述べつつ、「これは冷たさは暖かさの欠如にすぎず、本来現実的なものではないと言うのに等しい。だが冬に暖房を入れなければ、いやでも冷たさの存在を感じないではいられない。こう考えると冷たさの非在を主張する説は真実ではないとわかる」という趣旨のことを述べています。

 

 また、シュタイナーの悪魔論によると、人のエーテル体(思考に関係)やアストラル体(感情と欲望に関係)に忍び寄るアーリマンとルシファーは、我こそは人類を導き、指導する権利を持っていると考える「地球の不当な王」として、何千年にもわたり人類の霊的進化を導く神や天使的存在に挑み、敵対してきた二大悪魔ともいうべき存在です。しかも彼らは野望実現計画のために人間を使役して敵対の意志を表現し、抵抗の道を歩ませようとしてきました。




 「サタンなんていない。闇などない」と言ったところで、被害に遭っている人は沢山います。わたしはこれを自らの経験をつうじても他の人の例をつうじてもよく知っています。その被害の程度についても軽度のケースから深刻なケース、破滅や死に至るケースまであるので、「高い悟りに到達した境地から光にさえつながれば悪魔は退散消滅する。よってとらわれてはいけない」という教えを金科玉条のようにどんなケースにも適応させようとするのは無理があり、現実無視となってかえって無慈悲、無責任、無関心となったり、時にはミスリード(誤導)を犯す危険性にも陥りかねません。

 

 悪魔に悩まされる人々が孤立しやすい要因の一つには、傍から見ても悪魔のシワザとは気づかれにくいことが考えられます。そのことはつぎのことと重ねて理解する必要があります。それは今まで人類は外面的な発展や感覚的な満足や物質的充足とか繁栄にばかり関心を向けてきたため、心の世界の【無意識領域が拡大】し、そこに未浄化な想念の【吹き溜まり】ができて暗黒の霊を呼び、それらに餌場を提供する結果となってしまったという経緯があることです。

 今どうしてこんなに悪い世の中になってしまったのか?【陰謀】を暴き、これを【真相】として告発する人々の意志と、それらの人々を【陰謀論者】と決めつけて非難・排斥しようとする人々の意志とが、世の中を二分し、せめぎあいを繰り広げているのはなぜなのか? という疑問へのヒントがここにあります。

 そして、そういう今だからこそ【バランス】をとる必要があります。それはこういうことです。

  光も認め、闇も認める。虚偽とともに、真実も認める。それは批判や非難や抑圧や否定を行うことではなく、「在る」とハッキリと認め、それと向き合い、直面することです。そして、こういう素直な態度を同じ社会に暮らす皆で共有することで、共通の話のできる土壌や空気感を醸成してゆくことです。


 バランスをとるというのは、どういうことか。シュタイナーによれば、人間は肉体的には、神経システムと血液システムから成り、前者はアーリマン的、後者はルシファー的だといいます。

 まず、アーリマン的な力とは、肉体を硬化させ、老化させる力。魂にたいしては、細事にこだわり、俗物的となり、唯物論的となり、現実主義的で干からびた悟性といわれる傾向に誘う力です。

 一方、ルシファー的な力とは、若返らせ、幻想性に向わせ、夢想家にさせ、神秘主義や熱狂主義へと誘う力です。

 それら二つの衝動に支配されずに、そしていずれにも偏らずに中道を行くのがキリスト的であるということです。将来的には、人間の文明は医学でも教育でも内的なキリスト衝動によってキリスト的な方向に向って行く必要があるとのことです。




 今まで陰となっていた領域を明るみに出して、裏を表にする。それによって調和する。これが小説の本来の働きであり、活用です。

 これをわかりやすくいえば、寒すぎず暑(熱)すぎず、ちょうどよい加減。ちょうど今の気候のようにしのぎやすい季節。夏と冬とのあわいの季節。それが水と火の和合した「ユ」の言灵です。

 現実は抑圧や差別や偏見にご都合主義や経済優先により偏り、殺伐として無味乾燥な世界になっていますが、そこに潤いをもたらすのが、小説の世界です。

 小説の世界を創造することは、無視され、軽視され、隠蔽され、否定され、排斥され、無意識化されてきた要素を加えることにより全体のバランスを理想的な状態へと回復することでもあります。


 そして、いわばキリスト的な波動を見つけて来てくれた読者がその周波数域に意識を合せ、アチューンメントすることで、その人は内的な変革を経験しはじめることになります。これは作者だけでもできないし、読者だけでもできないことです。両者が幸福な出会いをしてはじめて成立することだからです。

 したがって、わたしは小説は作者と読者との共同創造だと考えています。それに成功するときは小説の芸術的な価値も出てくるといえます。「悪魔にスポットライトをあてるのが、どうして理想的なんだ」と問われれば、「闇は気づかれることで役目が終り、もうそれに支配されたり恐れる必要もなくなるからだ」と答えます。



    27th Apr, 2024  言海 調

 

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