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小説を編みたいという衝動はどこから来るのか

更新日:1月30日

 


 なぜわざわざ小説なんて書くのか。

 

 こんな素朴な疑問をいだいたことはありませんか。


 では、ここで質問を変えてみます。

 

 なぜわざわざ人生なんて歩むのか、と。


 こう問う人は、ずっと少ないはずです。

 

 なぜでしょうか❓


 人生はだれにとっても、すでにあたえられたものです。選ぶと選ばざるとにかかわらず、もう人生は始まっている。すでにこの世界に投げこまれてしまっている。

 この選択不能性、そして被投性にたいして、なぜと問うのは、多くの人にとってなかなか勇気のいることかもしれません。


 一方、虚構といわれ、フィクションといわれる小説のほうは、別に始めなくたっていいし、わざわざ苦労して書きあげなくてはならぬものでもありません。


 小説を書こうと決めた人間は、だから敢えて困難に挑むことを選んだのだともいえます。


 しかし、それだったら、人生だって同じことではないか、という人もいるかもしれません。人生は決して選択の余地なくあたえられたものじゃない。生まれる以前に自分で選んできたのだ。


「わたしはこういう人生を生きたい、生きるんだ」と、そう望んで、シナリオを描き、それに最もふさわしい親を選んでくるのが、わたしたち人間ではないのか。そういう宿命をもった存在が、わたしたち人間というものではないのか。ただ、たいていの人間において、この重大な事実はすっかり忘却されてしまう。


 忘却の河に沈んだ記憶をふたたび取り戻した時、それまでは馬上でゆるめていた手綱をしっかりと握り直し、自分が思うような人生へと仕上げてゆく創造主としての主体的な意識を新たにもつのではないか・・・・・・。


 たしかに真実かもしれません。たいていの人においては忘れ去られているだけで。だから、なんだか訳の分からないうちに、願ってもいない人生の道を歩ませられている・・・・・・といった被害者意識みたい意識とともに、生きてしまっている人が少なくないのではないでしょうか。


 そんなことでは当然ながら力弱い存在とならざるをえない。そして、力弱い弱体化した人間ばかりで構成される社会は、勢いも潤いもみずみずしさも鮮烈さもなくなってしまうことになります。


 そんな干からびて精彩を欠き、モノクロのトーンをおびた退屈きわまりのない社会のアストラル物質ともいうべき雰囲気が、こんどは個人の日常の気分に逆流し、浸透してくるとすれば、どうなるか。


 マンネリ化し、絶望しきった日常をこれ以上つづけるのに嫌気がさして、もっと人生を面白くエキサイティングなものにしようと意気ごみをもって立ち向かおうとしている人がいてもおかしくはありません。

 退屈な社会とそれを支えている人々の一部に自分がなってしまっていることへの怒りを原動力に、そしてもっと創造的に生きたいという意欲をバネにして、もがき苦しみ、悪戦苦闘してきた人たちが、たしかにいると思います。


 表面上はどんなに静かに見えたとしても、世の中の常識にある程度そって暮らしていますと他人には見せかけ、何食わぬ穏やかな顔をして生きているとしても、じつはとっくにオフロードに飛び出て道なき道を探し求めているという人。水面下の足掻きのように、必死になにか真実の道をもとめ、つねに模索してきたという人。案外と多いのかもしれません。


 たとえそれが暗中模索の試みであろうと、幽閉された牢獄の薄闇の中に一条の外光の射してくるのにすがるように、頼りとなる導きの綱を見いだしていればこそ、自分を取り巻く生きづらい現実に抗い、本当の生き方、もっと楽な世界にたどり着く試みをつづけてゆかれます。


 では、その導きの綱とは何でしょうか。もちろん、人によって導いてくれるものの質は違うことでしょう。 

 わたしの場合、それは「意味」でした。「意味」を紡ぎ出してゆくことは、どういうことか。まだ言葉にならない言葉以前の無意識の闇を照らし、それを意識の表面に浮かびあがらせること。他の人々と共有化できるまでにはふさわしい言葉をたぐり寄せ、文章に編んでゆくことでした。

 そこではじめてこの地上の物質界のものごとに息吹きをあたえ、物語の織られる必然が生まれてくることを体験しました。


 周りに見える世界を蔽う見かけのベールがはがれ落ち、その奥の世界が現れてくる。

 それは、無味乾燥となり、意味を喪った人生しか見ていなかった目を、輝ける人生、「意味」の充満した人生へと移し、目に見える形の世界の背後に息づいている豊かな世界に触れる歓喜へとつなげる試みといえます。


 宇宙は重層的です。目に見える物質の世界でとどまっていては、まだまだそれは浅い層でしか生きていないことになります。いのちの根っこ、生命の源泉まで到達する可能性をまだ残しています。

 奥にある世界に光があたるときは、霊界に置いてある原像がこちらに映りこんでくるときではないか。ある時、ふとそんなことを思いました。


 現身(うつしみ)、現世(うつしよ)とは、写し身、写し世のことです。


 小説を編みたいという衝動。それがどこから来るのか。ここですぐに答えを出したいとは思いません。

 ただ、問いつづけます。一方で実作をおこないつつ、他方でこうして問いつづけます。


         

               13th Apr, 2021  言海 調


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